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【書評・紹介】暖淡堂書房『腐朽船群』——終わりゆくもの、立ち去るものへ注がれる静謐な視線

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こんにちは、暖淡堂書房宣伝部です。 今回は以下の書籍を紹介します。 暖淡堂書房、詩集 『腐朽船群』 (暖淡堂 著)。 私たちが生きる日常のすぐ傍らで、あるいは時間の流れの果てで、静かに役割を終えていくものたち。本詩集は、かつて海原を駆け抜け、あるいは時代の波を支えながらも、いまは打ち捨てられ、あるいは立ち去りゆく「船」の姿を通して、世界の沈黙と美しさを描き出した一冊です。 「終わりゆくもの、立ち去るもの」へ向うまなざし 世の中の多くのものは、効率や新しさを求めて常に前へと進みます。しかし『腐朽船群』が捉えているのは、その逆のベクトルです。 錆びついた鉄板、潮風にさらされて風化した木肌、そして波間にひっそりと傾ぐ古い船体――それらはすべて、かつて確かに存在した熱気や、人の営みの記憶を宿しています。本書の詩行は、そうした「終わりゆくもの」「静かにその場を去りゆくもの」に対して、哀惜というよりも、むしろ深い敬意と穏やかなまなざしを向け続けています。 収録作品より:静謐なる世界の一端 本書に収められた詩の中から、いくつか印象的な情景をご紹介します。 『座礁』より 潮が引いた浅瀬に、かつての巨体が傾いでいる。 波はただ寄せては返すだけで、誰もそこをとがめる者はいない。 かつてエンジンが轟き、汽笛が響いた鉄の塊は、 いまや海の風景の一部となり、静かに沈黙のなかに溶けていく。 動かなくなった船体と、何事もなかったかのように満ち引きを繰り返す自然。その対比の中に、人間の営みのはかなさと、それを包み込む大きな時間の流れが鮮やかに描き出されています。 『遠ざかる波紋』より 港を離れる船の背中を見送るのではない。 船の側から、遠ざかっていく岸辺の光景を見つめる視線。 立ち去る者にとっての景色は、いつも静かで、少しだけ冷たい。 だが、その孤独のなかにこそ、本当の自由の形が...

あるべき国の姿と「道」のあり方 ― 暖淡堂書房『管子四篇』と『覇王の佐』から読み解く国家統治の神髄

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国家を治め、社会の平穏を保つために真に必要とされるものは何か。目先の利益や強大な武力、あるいは厳罰による強制力だけで人は真に従い、国が繁栄し続けることはできるのだろうか。 暖淡堂書房より刊行されている『管子四篇(心術上・下、白心、内業)』および『覇王の佐』は、中国古代の思想を通じて、この普遍的な問いに対する深い洞察を与えてくれる。本記事では、これら二冊の資料を手引きに、理想的な国家のあり方(あるべき国の姿)と、それを支える本源的な規範・真理である「道(どう)」の関係性について読み解いていく。 1. 『管子四篇』が説く「道」の姿と君主のあり方 『管子四篇』は、斉の宰相であった管仲の名を冠する古典『管子』の中でも、特に「道」や「心」の修養に関する思想が集中的に論じられている部分である。ここで示される「道」とは、単なる倫理観や規範にとどまらず、宇宙や万物の根本的なあり方であり、目に見えず言葉でも説明しがたい無形・虚無の理である。 「心術」における身と国の重なり 「心術上」において、人の身体と精神の関係は、そのまま国家と君主の関係に例えられている。 ”心の体に在るは、君の位なり。九竅の職あるは、官の分なり。心その道におれば、九竅理にしたがう。” 身体の中の中心である「心」が道に従っていれば、目や耳といった「九竅(器官)」は自ずと正しく働く。これは、君主(指導者)が「道」に従って静穏で無為のあり方を保っていれば、配下の官吏や人民も自らの職分を全うできるという統治論に直結している。 逆に、君主が個人的な嗜好や欲望(嗜欲)に囚われ、自ら動揺して先走り(「馬に代わって走り、鳥に代わって飛ぶ」ような行動)、知謀や武力を誇示しようとすれば、結果として本来の位を失い、下の者を乱すことになる。 「虚」と「静」がもたらす無為の統治 『管子四篇』では、天の道を「虚(私心や執着がない状態)」、地の道を「静(動揺せず安定している状態)」と定義する。治者(有道の君)は、この天の虚と地の静を体現しなければならない。 己の私情やあらかじめ設けた固定観念を捨て、物事の自然な動きや法則に身を委ねること(「因る」こと)。物事が生じればそれに応じて正しく処置し、過ぎ去れば心に留めない。このような「無為にして制す」姿こそが、心が正しく治まり、ひいては「心安きはこれ国安きなり」という国家の安泰へともたらされる道筋...